第110話 御礼参りに行こうと思っている(2)

 僕は昨年の5月頃、家人と二人で車に乗って、あるお寺へと向かった。
 松泰山東光寺というお寺で、おそらく「門戸厄神」(もんどやくじん)さんと呼んだ方が馴染みが深いだろう。関西、特に大阪や兵庫県では厄除けの寺として非常に有名で、毎年多くの人たち、特に厄年の人が厄除け祈願に訪れて無病息災を祈願している。その門戸厄神さんに初めてお参りをしたのだ。

 実はそこは僕が生まれ育った地域からさほど遠くはない所にあったりする。あまり乗ることがない路線ではあるが、その路線の電車に乗れば、その名が駅名でもあるがゆえに必ずと言っていいほどその名を聞いていて、あって当たり前の存在のごとく僕の意識の中に存在していた場所だったのだけれど、縁がなかったのか、その時まで実際に訪れたことがなかった。
 ではなぜ僕がその門戸厄神さんに、その時わざわざ出向いたのか。

 数えで四十二歳の本厄か?

 いやいや、そんな歳なんてとっくの昔に通り過ぎている。

 じゃあどうして?

 その頃僕は数ヵ月前に遭遇した交通事故にて負傷した怪我に起因する原因不明の症状に悩まされていた。整形外科、外科、内科、鍼灸院等、いくつかの医療機関で診断と治療を受けるも、なかなか改善せず、むしろ悪化の傾向が持続していた。正直なところ、この先どうすりゃいいのかとも思っていて心の拠り所というものがなかった。そんな時、家人から「気休めに門戸厄神さんに厄払いでもしに行こか」と言われた。

 僕は基本的には宗教なんてものを信じない人間だから、最初は「そんなところに行ったって仕方がない」と言って相手にしなかった。でもその後も思い出したかのように時たま僕にそう勧めてくる家人の表情に、どこか先行き不透明な今に対する不安のようなものが垣間見えたものだから、そもそもは僕のためではあろうが、それよりもむしろ家人のために、家人のその持っていく先のない不安を解消させるがために二人で門戸厄神さんに行った方がいいと思うようになった。
 この際、ご利益云々は問うまい。二人で行って、僕のこの不幸な状態が早く良くなりますようにと願うことを行うことに意義があるのではないかと思ったのだ。そうすれば少なくとも家人の持っていく先のない不安が少しでも減るんじゃないかと思った。僕が持っていた不幸な状況は、もはや僕一人の問題ではない状態になってしまっていたのである。

 そして前述したとおり、昨年の5月のある日、僕と家人は門戸厄神さんを訪れた。異様に広くて豪勢な場所というようなイメージを僕はいつの間にか頭の中に定着させてしまっていたのだけれど、実際に訪れると、そこは確かにそれなりの広さのあるお寺さんだったのだけれど、控えめな雰囲気の漂う品のいい仏閣だった。
 僕はこの時初めて門戸厄神さんが通称であって正式名が「松泰山東光寺」であるということを知った。(この際の「ヘェー!」度は「石切神社」が正式には「石切劔箭神社」であるということを初めて知った時と同じくらいのレベルであった。)いやそれ以上に、門戸厄神さんが仏閣であったのだと初めて意識した。
 それまでは僕の中では門戸厄神さんは、神社ではなく仏閣でもない、何となく「門戸厄神さんは門戸厄神さん」というような一種独特の存在だった。そしてそれはたぶん「門戸厄神さん」の存在を知った幼少期の頃からであっただろうから、かれこれ50年ほど経ってようやく本来の「門戸厄神さん」を知ったということだ。何とも失礼なことをしていたものだと我ながら呆れた次第である。

 そんな僕であったが、この時は真剣にお参りをした。5円とか10円程度のお賽銭しか出せなかったが合掌すべきところでは必ずお賽銭を奉じて合掌した。溺れる者は藁をもつかむのである。

 あれから一年以上経った今の僕の体には、僕を苦しませていたあの症状はない。

 実に幸いなことである。

 これはもちろんきちんと医者に通い、治療を受け、家族の協力を受けながら自分でも快復のための相応の努力をしたからこそ、そうなったのだと思っているが、でもやっぱりそれだけではないとも思える。
 あの時家人と二人で藁をもつかむ思いで快復を祈願した気持ちがあった。だからここまでやってこれたような気がしないでもない。そういう観点で考えると、やっぱりきちんと門戸厄神さんに参って御礼をするべきだろうと思うのだ。
 僕は今でも宗教などを信じようなんて、これっぽっちも思わない。神様というものの存在に対しても今でもやっぱり否定的だ。だがあの時、何ものかに無心で祈った自分の「信じようとする心」や「信じたいという気持ち」、そして「願う行為」を否定することは、やっぱりできない。あの時確かにそういう自分がいたのだ。だから御礼はしたい。そういう自分にさせたものに対する礼は、やっぱりすべきなのだと思えて仕方がないのだ。
 だから僕は近々門戸厄神さんに行こうと思っている。1円とか5円とか10円といった程度のお賽銭しか出せないけれど、僕は御礼をしに、合掌をしに行く。

もちろんこれは「仕返し」ではない。純粋に「御礼」である。
 
 
【2017年7月12日水曜日記す】
 
 
2017年9月18日追記
 このエッセイを書いた後の2017年7月22日に僕は家人と共に門戸厄神さんに御礼参りに行ってきた。そしてきちんと手を合わせて御礼を言ってきた。もう盛夏と言っていい時季で暑い日だったから、そんなに長居はしなかったけれど、行って良かったと思った。


合掌


羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶 般若心経


 
 

第110話 御礼参りに行こうと思っている(2)” に対して 2 件のコメントがあります

  1. 同世代 より:

    お礼参りができる穏やかな日々に感謝ですね。

    1. いくたしば いたる より:

      同世代さん こんばんは。
      コメントありがとうございます。

      >お礼参りができる穏やかな日々に感謝ですね。

      御礼参りには行きましたが、残念ながらだからと言って穏やかな日々ではありません。
      むしろ新たな問題が飽きることなく襲ってきます。
      何も誰も信じられません。
      もう本当にこんな人生に嫌気がさしています。

よろしければコメントなどを……